日本歴史紀行

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歴史紀行 81 ‐ 6 藤原道長 公墓所推定地 6

葵 北風



藤原道長公墓所推定地 【宇治陵32号】

京都府 宇治市 木幡檜尾





左大臣 源政信の溺愛する娘、倫子と結婚、入婿した藤原道長。



夫婦仲は良く、後に一条天皇の妃となる長女の彰子をはじめ、関白へと上り詰める頼通、教通と、たくさんの子宝にも恵まれます。



ただ、先代の兼家は、後継者を長兄の道隆に据えたため、この頃は そんな素振りも見せず、また、可能性も低いと言えました。



それでも、 先帝 円融天皇の后で、一条天皇の実母〜詮子(東三条院)は、末弟の道長を愛し、慈しみ、いつか弟を朝廷の頂(いただき)に…と思いを秘めていました。



990年 正暦元年 

朝廷の政(まつりごと)は、摂政となった道長達の父、兼家の意のままとなり、やがて病で先の命も短いと悟った兼家は関白を道隆の座に据え、間もなく病没しました。



関白太政大臣となった道隆は、長女 定子を中宮(妃)に定め、次男の伊周(これちか)を若干21歳にして異例の公卿に据え、盤石の政権体制を取ったかに見えました。


現に、一条帝に輿入れした定子の後宮は、世話係の女房として仕えた清少納言はじめ、才女たちが集まり、平安の文化サロンを印象付ける美しい後宮として描かれました。




権力を万全にした一方で、無類の酒好きだった道隆の身体は次第に蝕まれ始めました。



目を患い、手足が痺れ、喉が異常に渇く重度のアルコール中毒からの糖尿病でした。



度々の危篤をうけ、道隆は関白の座を次男の伊周に譲りたいと奏請しましたが、一条帝はこれを許さず、関白の職を道隆の弟である道兼とすることを決め、道隆は失意のまま、僅か5年の繁栄を中関白家にもたらさせて亡くなりました。





後継の関白職を継いだ道兼でしたが、道兼の就任した3月以降、流行り病が猛威を振るいました。



関白の慶びに参内した際に発病して倒れ、七日後に息を引き取ったことから、七日関白と囁かれました。






7に続きます。