歴史紀行 81 ‐ 3 藤原道長 公墓所推定地 3


藤原道長公墓所推定地 【宇治陵32号】
京都府 宇治市 木幡檜尾
寛和の変〜986年、寛和2年
道長の父、藤原兼家は好色で奇行癖のある花山天皇を、いずれ自滅の道を歩むと読みました。
兼家は三男、道兼が蔵人として花山帝に近侍していることを利用し、花山帝が女御・藤原忯子が没すると悲しみのあまり出家を望む発言をした事実を掴み、道兼には花山帝と共に出家する旨を言い含めさせ、花山帝をその気にさせて内裏を出させ、長男 道隆と次男 道綱には三種の神器を清涼殿から持ち出させて東宮へ移し、さらに道長には関白、藤原頼忠に帝が宮中より行方不明となった旨を訴えさせます。
知らせを聞いた花山帝の外叔父として権中納言ながら兼家と対立し、朝廷内で権勢を誇っていた藤原義懐は、これは兼家の策と断じながらも剃髪を終えた花山帝の姿を元慶寺で発見した時は、何もかも全て終わったと悟り、自らも出家し、花山帝の治世は終わりを告げました。
寛和の変と呼ばれる一連の花山帝退位の政変により、藤原兼家は勝利者となり、一条天皇の御代で一族は繁栄の道を掴むことに成功します、
そして
花山帝の退位は、先代の円融朝から副侍読の役職で花山帝に学問の講義をしていた式部丞〜六位蔵人の官位にあった紫式部の父、藤原為時から職を奪う結果を生み、紫式部のその後の人生を左右させることになります。
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