日本歴史紀行

歴史好きで、様々な史跡を巡る紀行ブログです。

歴史紀行 71 十九首塚

葵 北風

十九首塚(じゅうくしょづか)

静岡県 掛川市 大内 十九首塚史跡公園


 平将門〜十九首塚の由来〜


いまから千百年の遥か昔、延喜3年(西曆903年)から天慶3年(940年) の、関東の内陸に位置する下総国(しもうさのくに、現在の茨城県坂東市)相馬郡猿島(さしま)の集落に、 桓武天皇の五代目の子孫にあたる相馬小太郎将門という武将がおりました。後の平将門です。



当時は都が大和国(現在の奈良県)から京都に移り、藤原一族にとって栄華を極めたな時代でした。


「この世をば  わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることのなしと思へば」


後に栄華の頂点に君臨する関白太政大臣〜藤原道長が詠んだ歌の如く、帝を頂(いただき)に、それを支える朝廷は藤原氏が権勢を謳歌し、彼らを守る存在が犬のような存在の武士でした。



都は貴族が栄華を極めながらも、地方へと目を向けると、なかば公然と贈賄が行われ、地方の豪族たちも、自らの荘園を持ち、兵力を養って、さながら小さな独立国の観があり、荘園の新設縄張り争いは露骨に激しく、骨肉(親子兄弟などの血縁関係にある者) の間でも、機会ある毎に争いが繰り返されていました。





将門の祖父にあたる高望王が、叛乱の朝敵を平らげたとのことで、 平」の姓をうけ、その後高望が生涯を閉じると下総の勢力のバランスは大きくくずれ始めて、将門の父の良将の死後、親族間では、その遺領 (遺族に残された所有地、莊園農地等)と官職に目をつけ紛争が始まりました。



こうして将門は争いに巻き込まれ、親族間の争いから始まった紛争は天慶の乱へと激しさをましていきました。



そこで、将門は、中央政府から派遣された国司を追放し、領民の味方になる国司を任命せねばと考えていました。



次第に、将門は下野(栃木県)、上野(群馬県)、武蔵(埼玉県、 東京都)、相模(神奈川県)に侵入して、ことごとく制覇し国司を追い払い、関東一円8カ国を制覇してしまいました。 このことは京都の朝廷にとって脅威となり、将門が力を蓄えることは、

反旗を翻すものとみなされ、将門は関東の地に征討軍を派遣される身となり、征討軍の到着の前に、叔父にあたる国香の子の平貞盛、藤原秀郷等の軍によって武運尽き討伐されました。



これが天慶(将門)の乱といわれます。





藤原秀郷は将門の首級を始め家臣十八人の首級を持って、検視のため京に上る途中、掛川の宿まで来ました。一方京よりは、「賊人を禁裏(きんり〜京都御所)に近づけてはならない」と検死の勅使が派遣され、この地(十九首)で将門等の首級と出合いドンドロ川 (東光寺南側の下俣町と十九首町の間の小川=後の血洗川)で首級を洗い、橋の欄干に懸けて検死を受け、首実検の後、晒首にして無残にも路傍に捨てられようとしましたが、それに対して秀郷は【 将門主従は討伐された逆臣とはいえ、将門は桓武帝に連なる高貴な身、死者に鞭打つことは出来ない 】と言って、この地に手厚く葬りました。



これが十九首塚であり、また首級と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたといわれ、そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を【掛川】と呼ぶようになった説があります。



将門主従19の首は、それぞれ塚に葬られたものの、時代の推移とともに、何時しか郎党の塚は忘れ去られ、現在は将門のものとされる首塚だけが残され、そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備され、建立されました。




十九首塚被葬者


相馬小太郎将門【平 将門】

御厨三郎将頼

大葦原四郎将平

大葦原五郎将為

大葦原六郎将武

(平 将門一族)



鷲沼庄司光則

武藤五郎貞世

鷲沼太郎光武

堀江入道周金

御厨別当多治経明

御厨別当文屋好兼

隅田忠次直文

東三郎氏敦

隅田九郎将貞

藤原玄茂

藤原玄明

大須賀平内時茂

長橋七郎保時

坂上逐高

(将門郎党)





藤原秀郷は「将門の、その罪重しといえども、今や滅びてなし、その屍に鞭打つは非道なり」と、地元住民と共に十九の首級を別々に埋葬して、慰ろに供養しました。



時は天慶三年八月十五日でした。当時は十九ヶ所の塚があったようですが、今は一つの塚しか残っていません。この十九首の地名も十九所の塚があった事から十九所と名付けられ、後に十九首になったといわれます。



善政を敷いていたにも関わらず、数々の謀略と一族間の争いをやむなく繰り広げた末に無念の死を遂げた将門の怨念は全国を飛び回り、菅原道真が数々の祟りを起こす、 怨霊として恐れられていたように、将門も厄災として恐れられ、各地へ鬼門封じの、遥拝所をつくり、成田山に不動明を祀り、祟り等が起きないよう、各種例祭と供養を行って、この地の安全を守る氏神様として記られています。



「積年の昔には遠くから成田山遥拝所を訪ねる人々が数多く、毎月28 日の例祭には成田山は大変賑わい、参拝する人が連なったといわれます。 また、十九首、小鷹町は古くからあり、映画館、食堂、遊興街等があり、歓楽街として栄えていたといわれています。



首塚と一体となるべき胴塚は、遠い故郷の茨城県坂東市の古戦場近くに延命院があり、その境内に埋められ、毎年例祭を実施、街では戦勝祈願祭として伝統を引き継ぎ、将門まつりが行われています。

応援よろしくお願いいたします!