歴史紀行 69 國王神社 〜平将門 終焉の地〜

國王神社
茨城県坂東市岩井951
940年 天慶(てんぎょう)3年2月14日
和睦仲介の宴席
天慶(てんぎょう)三年(940年)2月14日
和睦仲介の成功による宴席において、酔いによる放言と、自らを頼ってきた者らの引き渡しを拒み、ついには国府の施設を襲ったことから朝廷から討伐の身となった平将門。
将門は新皇を名乗り、下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構える平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。
数日前に軍勢を解散した将門に対し、平貞盛と藤原秀郷は官軍として兵を徴発したことで3000もの軍勢に膨れ上がりました。
それでも将門の精鋭400騎は、敵軍3,000騎に対して臆することなく奮戦し、当初は追い風を得て、敵を圧倒します。
しかし、夕方になると、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。
地元の言い伝えによれば、首を取られた将門の身体は馬に乗せられ、後に國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのです。
将門の行ってきた善政により村人、百姓らの将門を慕う思いは受け継がれながら月日は流れ、将門の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきます。
それは、奥州・慧日寺(現在の福島県いわき市)に逃れていた、将門の三女・如蔵尼でした。
奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、あるとき悪夢を得て、急いで下総に帰郷すると、村人に父の最期の地を尋ねたのです。
平貞盛らによる熾烈な残党狩りの記憶から、口を閉ざしていた村人たちでしたが、尼僧が将門の縁者だと分かると、将門が辿り着いた最期の地である現在の國王神社へと案内したのでした。
如蔵尼はこの場所で、傍らの林の中より怪木を見つけると、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。
そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。
天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。




本殿
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